第18回

 60年安保闘争が終わって、下火になるかのように見えた学生運動でしたが、東大闘争に代表される学園紛争が全国に広がりました。全共闘(全学共闘会議)に主導されたその運動は、ヘルメット、投石、バリケード、火炎ビンなどの武装化が進み、激しく機動隊とぶつかり合うようになりました。

 読者の皆さんには参加された方もいらっしゃるでしょうが、当時の有り様を伝える報道の見聞きは、切迫した緊張感に包まれるものでした。テレビなどで、庶民的で硬軟合わせた軽妙なコメントを連発するタレント、コメンテーターのテリー伊藤氏(66)は、日大全共闘の一員として参加したデモでの投石を顔面に受け、重傷を負いました。青春の止むに止まれぬ熱い想いと行動は、手術をした左眼にしまい込まれています。

 70年安保闘争は、新しくなった安全保障条約の十年目の自動延長の際、条約の破棄に向けての運動でした。ベトナム反戦運動や成田空港問題と結びついた激しい闘争でしたが、学生運動は分派や、内ゲバ、総括と言われた暴力的内紛の兆しが見え始めていました。佐藤栄作総理大臣は、機動隊を強化して徹底的な取り締まりを行いました。巷にはフォークソングが流れ始め、反戦歌「フランシーヌの場合」が懐かしく耳に残っています。

 この年、「よど号ハイジャック事件」が起きました。日本刀、拳銃、手製の爆弾などで武装した「日本赤軍」にハイジャックされた日本航空機は北朝鮮に向かいました。海外に拠点を置いた「日本赤軍」による日航機ハイジャック事件は続き、その後もドバイ事件、ダッカ事件を起こしました。

 1972(昭和17)年2月に起きた「あさま山荘事件」は、NHK、民放を合わせた総世帯の視聴率が89・7%という驚異的な数字を示しました。「連合赤軍」が、長野県軽井沢町の河合楽器の保養所浅間山荘に、管理人を人質にして立てこもった事件で、機動隊員2名、民間人1名が死亡しました。「連合赤軍」はこれより先に「山岳ベース事件」を起こし、総括、粛清と称した集団リンチで12名を殺害していました。「あさま山荘事件」で、決死の突入によって死亡した1人の機動隊員の墓はあきる野市の西多摩霊園にあり、今でもその仲間、部下たちは、福生市の喫茶店レ・トロア・ヌーに集まって故人を偲んでいるそうです。

 学生運動は次第に民意から離れ、その勢いは下降線をたどり、国民は経済大国への道を歩むようになりました。世界からは「エコノミックアニマル」とまで言われましたが、若く激しいエネルギーは経済行為に集中して行きました。